面倒と外付け電池

最近、「気力」というものについて考えることが多い。
今、自分の気力が底を突いている自覚があって、
それに対する発見が多いからだと思う。
気力が無くなると、
面倒だとか、億劫だとかがすごく大きな心的負担になる。
食べ物を噛むためにアゴを動かすのも、
飲み込むのも面倒になって、
つまり食欲が無くなってくる。
アゴを動かしたりノドを動かすのは肉体の仕事、「体力」だけど、
「食べるぞ!」「噛むぞ!」「飲み込むぞ!」という意思は「気力」の仕事なんだよなあ。
今まで気力ってヤツは「あって当たり前」だったので、
こういう不自由は多分初体験であり、
困ったり、途方に暮れながらも
「へえ、なるほどねえ。」
と変に感心もしちゃうわけです。
んで、もう一つ面白い発見だなあ。と思ったのは、
面倒と億劫にやられちゃいそうな状態にあっても、
体に染み付いている習慣は、それとは別らしい。ということ。
自分の場合、子供の世話とか家族の食事の支度とか、
サイトの更新とか、仕事とか。
もう、いっそ寝込みたい気持ちになっても、
子供が「まんま~!」と言えば、
「ああ、ハイハイ。」と台所に走るし、
(ご飯食べるの面倒だなあ…。)
と思っても、
家族のご飯は作らないとならないし、
作ればなんとなく食卓に座るし、
座れば自然と食べ物を口に運ぶ。
面倒の王様、お風呂も、
子供を入れるついでに入らざるを得ないし。
サイトの更新なんて、
義務でもなければ仕事でもないし、
やたらに気力は消耗するはずなので、
いの一番に「お休み」ということにできるはずなのに、
何年間も毎日毎日やっていると、
描かないことがたまらなく気持ち悪くなってくる。
習慣や家族や仕事って、
本体の気力電力が無くなったときの「外付け電池」にもなるんだなあ…。
とも思ったわけです。
その電池があるうちに、本体の電力が復活するのか、
その電池も使い切ってしまうのかはまだ分かりませんが、
自分が放り込まれる墓穴を自ら掘るような日々を、
なんとか乗り越えようと思っております。
ほいほい。
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