戦慄の旋律
オカリナは、陶器などを原材料に作られた楽器で、その音色は朴訥としていて穏やか。
聴く者を不思議に安堵させる癒しの音色を響かせる。
しかしそんなオカリナの旋律も、我が家では「恐怖の音色」として家族の間に記憶されている。
それは、一つのオカリナがもたらした、ある出来事に起因する。
数年前のある日のことだった。
何を思ったのか、突然母が楽器店からオカリナと、オカリナの教本を購入してきた。
「私、今日からオカリナを練習すっから。」
得意満面の母。
楽器を練習するというのはいいことだし、特に反対する理由も見当たらなかったため、家族は母の新たな挑戦を祝福したのだった。
数年前のある日の数日後のこと。
オカリナを咥えて練習に没頭する母の前、家族が集まり懇願していた。
「母ちゃん。頼むからもうオカリナは止めてくれ!」
「ポーーー?(なんで?)」
「その音が…!」
「ポーーーー。(癒されっぺさ。)」
「気になるんだよ…!」
オカリナ購入から数日間。
母は驚くべき集中力で、オカリナを練習し続けた。
しかし、集中力や努力の量と、上達の速度が必ずしも一致するわけではない。
母のオカリナは、一向にレベルアップしなかったのである。
そもそも、プロを目指すわけでないかぎり、上達など二の次。
たどたどしくも楽しめれば目的は達成出来ているのだし、周囲もとやかくは言わないのだが。
・・・問題は、母の練習方法にあった。
旋律を記した楽譜の、最初の2~3粒を吹き始める。
吹き始めたはいいが、当然、4~5粒目くらいで指が迷ったり、音の進行がおぼつかなくなり、止まってしまうのである。
練習しはじめではそれは仕方のないことだ。
もちろん、それを責めるつもりはない。
しかし、母の練習法の難点は、その止まってしまった地点から、必ず最初にもどって練習を再開するところにあった。
つまり、延々、その曲の始めの一小節を繰り返しているのだ。
「ポロ・・・♪」
「ポロロ・・・♪」
「ポロ・・・♪」
「ポロ・・・♪」
たどたどしくも、旋律が進行するなら音楽として受け入れられる。
そのことを言っても、
「ヒトの練習方法にとやかく言うな!」
と一蹴された。
母は、全体のデッサンを決めてからではなく、キャンパスの端っこから完成させてゆく手法以外認めないらしい。
本人はそれでいいのかもしれない。
何故なら、吹いている本人は続きの旋律もイメージしているのだから。
しかし周囲の人間はどうだろう。
同じ部分の音色がひたすら等間隔で流れ続けるというのは、非常に気になり、耳に障る。
しかも、オカリナの音は染み入るように響くため、どこにいても聴こえてくるのだ。
まるで、古代中国の、額に水滴をポタン・・・ポタン・・・とたらし続け、発狂させる拷問のようでもあった。
そんな日々が積もり積もって、ついに家族から「オカリナ禁止要請」の声が出始めたのである。
しかし、「やめて」といわれて素直にやめる母ではない。
いや、むしろ余計に燃えてくる。
いよいよ意気は高揚し、まるで
「私の芸術が本当に理解されるのは、私が死んでからなのよね…。」
と言わんばかりに、孤高の芸術家の悲哀にも似たマイペースの音色を周囲に染み込ませ続けた。
それは、それから数日後、突如としてオカリナが失踪するまで続いたのである。
この、「オカリナの失踪」については、当時「何者かが隠したのでは?」というウワサ(主に母から)も飛び交ったが、結局、誰も関知せずという結論に達し、実はやや飽きも来ていた母の気持ちも手伝って、事件は闇に葬られ、ようやく事態の収束をみたのだった。
世界は平和を取り戻したのである。
それから数年後の先日のこと。
工房で釉薬掛けをしていた私の耳に、懐かしいような、胃の腑がざわめくような音波が届いた。
力(オカリナ)は再び魔王(母)の元へ戻ったのだ。
うっとりとオカリナを吹く母を見ながら、かくなるうえはオカリナを、火山の溶岩に投げ捨てるしかないと内心決意したことは言うまでもない。
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