女の意地
決して飲みたかったわけではない。
ただ、悔しかったから…。
底知れない、女の意地を垣間見た
~2005★夏~
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パソコンで絵を描いていると、完成間近でよく止まる。
そりゃあもちろん、レイヤーなんかを何枚も重ねていけば、その分データも大きくなって、トラブりやすくなるのは当たり前なのだけれど。
不思議なのは、途中、コマメに保存したものは消えないのに、うっかり保存を忘れていたものほど、もう一歩のところでピタリなんですよ。
デラショックですよ。
(名古屋弁の「でら」でも、デラックスのデラでもどちらでもよい。)
オレの3時間17分を返せ~!
と叫びたくなりますよ。
叫ばないけど。
思わずパソコンにチョップをかましたくなりますよ。
かまさないけど。
明日からは、線一本引いたら保存というくらいの意気込みで臨む所存です。
というわけで、納期にあまり余裕の無い仕事絵のセルフリテイクを終えて、それでもブログを更新する私。
そんな時間があるなら描かなきゃ!
でも、絵もブログも、読んでくれるみんなも好きなんだ。
まあ、一番好きなのは相方ちゃんなんだけどね。
(さあ、来たぞ、ノロケだ!)
肝心なところで止まっちゃう、忌々しいマイパソコンちゃん。
ヴァイオのマークがくず折れているように見えるから、カンベンしてやらあ。
しばらくちょっと忙しいので、グダグダな記事になるかもしれません。
あらかじめご了承くださいませ。
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膝枕から見えるアゴというものは、吸い付きたくなる魔力がありますね。
若干、体勢に無理があるのが難ではあるけれど、それを押してでも吸い付きたくなる何かがそこにあると思う。
まあ、大抵そのあとリアル舌打ちされますがね。
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姉のノックは激しい。
「小突く」というより、「殴打」なのですよ。
なんでそんなに強く叩くのだろうか。
考えてみるに、もしかすると
考え事をしていると、周りを完全に遮断してしまう私のクセに原因があるのかもしれない。
ちょっとやそっとじゃ気付かれないから、ついつい動作や音が大きくなってゆくのかも…。
だとしても、あれは大変心臓に悪いので、やめて欲しいと願ってやまない今日この頃。
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『ビッグフィッシュ』という映画を観たのですよ。
ちょっと前に公開された映画で、CMなども盛んに放映していましたから、
観たという方も大勢いらっしゃるでしょう。
私は劇場で見る機会を逸してしまって、今頃DVDを借りてきての鑑賞とあいなったのですが、
ある意味、それは正解だったと思います。
何故ならば、後半はもう鼻水と涙でグシャグシャになりながら観ていたからです。
あんなもん、劇場で観てたら、相方はともかく赤の他人に泣き面を見られまいとこらえるのに必死になって、素直に物語を染み込ませられずにいられたことでしょう。
それほど、いい映画でした。
具体的にどこがいいかというと、なんというか、
『ステキなウソの伝え方』
に感じ入りました。
劇的なことはもちろん、
何気ないことも、
悲しいことや、
残酷な事実まで、
伝え方によって、面白くなったり、救われたりするものなのだということ。
想像力が生み出したやさしいウソは、人を幸せにする力があるのだということ。
それが、表現という創造の意味なのだろう。
ということを感じたのです。
荒唐無稽とも思える物語と、生涯の足跡。
決して触れ合わず、けれども引き合い、温もりを持ち始める終盤は、
胸を締めつけ、
下あごを震わせ、
そりゃあもう、号泣を禁じえませんでしたとも。
前半はやや不安な展開ですが、気長に観ることをオススメします。
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「ヤバイ」
という言葉の新しい用法を、実際に使うべきところで使ってみたのですよ。
つまり、今までの「危機表現」ではなくて、「感嘆表現」の「ヤバイ」です。
いわゆる若者言葉という枠を取っ払って、素肌のままの「とても」がわりの「ヤバイ」は、実際に口に出してみると大変面白いものだと感じちゃったんです。
何故ならば、この「ヤバイ」の使い方は、大半が肯定の意味だからなんですよ。
裏返しの機微が感じられて嬉しい。
語感も、コロコロと小気味よく転がって、テンポが楽しい。
危機感を禁じえないほどの感嘆。
新しい組み合わせだと思う。
たとえば、
「このシウマイ、ヤバくね?」
という表現も、要するに
「このシウマイ、食べ過ぎることが危ぶまれるくらい美味しくない?」
という意味を、余計な言葉から必要な言葉まですっ飛ばして、「ヤバイ」に凝縮させてしまっている。
これってある意味の洗練と言えません?
世間的にはあまり歓迎されていない現状は、もしかするとやや直感的に過ぎてたり、何でもかんでも「ヤバイ」で済ましてしまう一部の人の語彙の狭さから反感を抱かれてしまってるのかもしれない。
もしも、何かにはばかられて「ヤバイ」を使ったこともなくケシカラン類に入れちゃってる方。
ためしに一度、感嘆としての「ヤバイ」を使ってみてはいかがでしょう。
意外に楽しい言葉の弾みが見えるかもしれませんよ。
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男なら、一度は妙齢かつ器量よしの保母(保育士もちろん女性)さんに寝かしつけてもらいたいものなのだ。
その願望は、挨拶くらいしか言葉を交わせなかった残念ぐあいすらも突き抜けた。
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以前一度試みて、敢えなく失敗したまま約一年間放っておいた「毛穴すっきりパック」に再挑戦した。
別に、角腺が気になってワケではなく、部屋を掃除していたところ、その残りがポロリと出てきたからである。
鼻がヒリヒリと突っ張ってくる緊張感に耐え切れず、開始10分を待たず引っぺがしてしまい、ベロベロになってしまった前回の轍を踏まぬよう、今回は時計でキッチリと経過を計った。
結果、見事に皮脂の除去に成功したのだが…。
期待したような皮脂の屹立は見当たらず、小さくて丸いツブツブがまばらにあるのみだった。
根拠なく期待した私が悪いのだが、なぜか少し損した気分を禁じえない夏の風呂あがり。
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人ごみの中で手を振るようなキャラクターではない相方に向かって満面の笑みで手を振る。
振り返さざるを得ない状況に追い込んで「羞恥プレイ」をするつもりが、そっけなくスルーされ、「放置プレイ」に涙する私。
ひどい…!
ひどいわ…!
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オカリナは、陶器などを原材料に作られた楽器で、その音色は朴訥としていて穏やか。
聴く者を不思議に安堵させる癒しの音色を響かせる。
しかしそんなオカリナの旋律も、我が家では「恐怖の音色」として家族の間に記憶されている。
それは、一つのオカリナがもたらした、ある出来事に起因する。
数年前のある日のことだった。
何を思ったのか、突然母が楽器店からオカリナと、オカリナの教本を購入してきた。
「私、今日からオカリナを練習すっから。」
得意満面の母。
楽器を練習するというのはいいことだし、特に反対する理由も見当たらなかったため、家族は母の新たな挑戦を祝福したのだった。
数年前のある日の数日後のこと。
オカリナを咥えて練習に没頭する母の前、家族が集まり懇願していた。
「母ちゃん。頼むからもうオカリナは止めてくれ!」
「ポーーー?(なんで?)」
「その音が…!」
「ポーーーー。(癒されっぺさ。)」
「気になるんだよ…!」
オカリナ購入から数日間。
母は驚くべき集中力で、オカリナを練習し続けた。
しかし、集中力や努力の量と、上達の速度が必ずしも一致するわけではない。
母のオカリナは、一向にレベルアップしなかったのである。
そもそも、プロを目指すわけでないかぎり、上達など二の次。
たどたどしくも楽しめれば目的は達成出来ているのだし、周囲もとやかくは言わないのだが。
・・・問題は、母の練習方法にあった。
旋律を記した楽譜の、最初の2~3粒を吹き始める。
吹き始めたはいいが、当然、4~5粒目くらいで指が迷ったり、音の進行がおぼつかなくなり、止まってしまうのである。
練習しはじめではそれは仕方のないことだ。
もちろん、それを責めるつもりはない。
しかし、母の練習法の難点は、その止まってしまった地点から、必ず最初にもどって練習を再開するところにあった。
つまり、延々、その曲の始めの一小節を繰り返しているのだ。
「ポロ・・・♪」
「ポロロ・・・♪」
「ポロ・・・♪」
「ポロ・・・♪」
たどたどしくも、旋律が進行するなら音楽として受け入れられる。
そのことを言っても、
「ヒトの練習方法にとやかく言うな!」
と一蹴された。
母は、全体のデッサンを決めてからではなく、キャンパスの端っこから完成させてゆく手法以外認めないらしい。
本人はそれでいいのかもしれない。
何故なら、吹いている本人は続きの旋律もイメージしているのだから。
しかし周囲の人間はどうだろう。
同じ部分の音色がひたすら等間隔で流れ続けるというのは、非常に気になり、耳に障る。
しかも、オカリナの音は染み入るように響くため、どこにいても聴こえてくるのだ。
まるで、古代中国の、額に水滴をポタン・・・ポタン・・・とたらし続け、発狂させる拷問のようでもあった。
そんな日々が積もり積もって、ついに家族から「オカリナ禁止要請」の声が出始めたのである。
しかし、「やめて」といわれて素直にやめる母ではない。
いや、むしろ余計に燃えてくる。
いよいよ意気は高揚し、まるで
「私の芸術が本当に理解されるのは、私が死んでからなのよね…。」
と言わんばかりに、孤高の芸術家の悲哀にも似たマイペースの音色を周囲に染み込ませ続けた。
それは、それから数日後、突如としてオカリナが失踪するまで続いたのである。
この、「オカリナの失踪」については、当時「何者かが隠したのでは?」というウワサ(主に母から)も飛び交ったが、結局、誰も関知せずという結論に達し、実はやや飽きも来ていた母の気持ちも手伝って、事件は闇に葬られ、ようやく事態の収束をみたのだった。
世界は平和を取り戻したのである。
それから数年後の先日のこと。
工房で釉薬掛けをしていた私の耳に、懐かしいような、胃の腑がざわめくような音波が届いた。
力(オカリナ)は再び魔王(母)の元へ戻ったのだ。
うっとりとオカリナを吹く母を見ながら、かくなるうえはオカリナを、火山の溶岩に投げ捨てるしかないと内心決意したことは言うまでもない。
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昔から、「スーパーヒーロー」というものは、一般の市民から隔絶された存在だった。
凶悪な怪獣や巨大なロボットが市民を脅かすと、どこからともなく現れて、それらをなぎ倒し、どこへともなく去ってゆく。
ヒーローは、瞬間的に訪れた「非日常」を、すぐさま「日常」に塗りかえる「非日常」の存在だったと思う。
先日、「Mr.インクレディブル」という映画を観た。
この映画の主人公は、「スーパーヒーロー」を生業とする超人である。
従来のスーパーヒーローのように、非日常から踏み込んでこない超人ではなく、超人という自分の能力を生かした「スーパーヒーロー業」を営む、日常に根ざした超人なのだ。
ある日のこと。
プロ・スーパーヒーローであるボブは、仕事中のトラブルから一般人に怪我を負わせてしまい告訴されてしまう。
誤解や不可抗力による事故だと弁護士を立て、法廷で争うも敗訴。
これまでの功績から実刑はまぬがれるも、裁判所から
「スーパーヒーローを廃業し、一般人として生きること。」
という命令を受けてしまうのだった…。
というところから話は始まります。
私個人としての感想というか、いいなあ・・・と思ったところとしましては、
「超人」という、実際にはいない存在の悩みを想像してみようという試みの面白さと、その根底に流れる思いやりとか、優しさとか。
超人だって、結局、人とのツナガリで救われるんだよ。
というメッセージを受け取りました。
もっと細かいところを言うと、ママ(元・イラスティ・ガール)が最高。
敢えて分かりづらく言うけれど、悪者だったキレイなお姉さんに
「あなたの家族は無事よ。」
と言われたパパが、嬉しさのあまりお姉さんを抱きしめたところにママが入ってくる。
「あ…ああ、あなたが彼の奥さん?」
と、まるで不倫相手が開き直ったかのような展開になり、
問答無用でお姉さんにパンチをかますママ。
(抱き合ってたことに怒ったのかな?)
と思いきや、
「それは私が言うセリフよ!」
という場面。
(ちょっとうろ覚えだけど)
ああ、そっちに怒ったんだ。
パパを安心させるのは自分の役割なんだ。
信頼してんだな~。
という感じがにじみ出ていて、大変感動しました。
それからお互いに減らず口を叩きながらも、ピッタリと同じ歩幅で走る二人。
なんかいいよなあ~。
と思いましたよ。
まあ、他にもまだまだ感じ入るところはありましたが、ここだけにしておきます。
全編通して大変面白い映画でした。
CGアニメですが、大人が観ても十分すぎるほど楽しめます。
ちなみに。
私はレンタル店で借りる時に、アニメコーナーに立ち入るのがはばかられて難儀しました。
三十路目前の男が一人でアニメコーナーに立ち入るのは、アダルトコーナーよりも恥ずかしいっての。
ともかく、
是非一度、ご鑑賞くださいませ~。
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先日のこと。
私の住んでいる町をクルマで走っていたら、犬を散歩させているじいちゃんを見かけた。
そのじいちゃんは、長い白髪を後ろで束ね、側頭部はまとめきらないのか窮屈なのがいやなのか、ばらばらと横に広がっている。
いわゆる、「坂本竜馬」型の髪型をしていた。
せっかくの「竜馬マゲ」だというのに、紺の着物に白袴ではなく、ポロシャツにコットンパンツだったのが少し残念だった。
その直後、交差点で一時停止をして周りを確認していたら、今度はヘルメットに金色の鍬形をつけたライダーが走ってきた。
騎馬武者ならぬ、ライダー武者だ。
せっかく兜をかぶっているのに、いでたちが甲冑ではなくTシャツだったというのが残念極まりないところではあるのだが、その意気は大いに買いたいところだと思った。
おらが町には、服飾の端々にサムライが息づいているらしい。
今度は是非、仙台平にぶっさき袴、腰間に大小をさした高純度のサムライを見たいものだと願わずにいられない。
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さすがに、身内の意見というものは的確かつ容赦がない。
決して江川紹子さんが不美人であるとか、似ていることが不名誉であるということではないのだが、大抵、
「有名人に例えると?」
という質問には、それぞれの部位のいいところをみつくろって、拡大解釈や多少の脳内バランス調整などを経て、女優さんとか、そういう人になぞらえるものなのだと思う。
そういう基準で言うと、相方は昔、
「『小雪』に似ている。」
と言われたことがあるらしい。
なるほど確かに、面影と、どことなくぎこちない笑い方は似ている気がする。
ちなみに私が過去に似ているといわれた有名人は、
「マスオさん」、「のび太くん」、「古田敦也捕手」であり、
架空の人物が過半数以上を占めているという驚くべき結果が報告されている。
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もちろん、実話である。
そこで、
「つまり、このゴミをサチだと思えばいいのか?」
と聞くと、当然
「あたしがゴミだって言うの!?…ヒドイ…!!」
となる。
…俺にどうしろって言うんだ…。
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いつもなら、
「寝る」と決意して布団にくるまれば10秒を待たずして寝入ってしまう私でも、月に一度か二度くらい、眠れない夜というものがある。
そういう時というのは大体、なにか不安なことがあったり、悲しいことや悔しいことがあったり、内臓の体調不良などがあったりで、どれもこれも気が滅入ることばかりなのです。
昨夜のこと。
深夜まで作業をしていて、ようやく一段落ついたのを確認し、電気を消して床に入った。
目を閉じて、脳の映像に黒いシャッターが降りるのを待つ。
しかし、10分ほど経過しても、一向に眠気が来ない。
それどころか、ますます冴え冴えとしてくる。
ああ、イヤだ。
こうなると、室内の暗さも手伝って、大体ロクでもないことが頭をよぎりはじめる。
イヤだイヤだ。
なにか、考えを他に逸らそうと試みる。
眠りたい。
眠りたいんだから、そうだ。
ヒツジだ。
ヒツジを数えよう。
眠れなくて、本当にヒツジを数えたことなんて、生涯一度もなかった。
いい機会だ。
ヒツジを数えれば、本当に眠くなるのか。
もし眠くなるなら、何頭くらいなのか検証しよう。
そう思いついた私は、想像の中でヒツジを数え始めた。
アイタタタ…。
…ヒツジに突き飛ばされた。
な~んて、
こんなくだらない想像をしているから、余計に眠れなくなった事は言うまでもない。
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某道化師軽食店のカウンターでは、店員の綺麗なお姉さんが、次々に降りかかる発注を、頭部と腰部に装備したイヤホンマイクを駆使して、後方の調理部隊に伝達している。
いつもながら、カウンターのお姉さんは、捌く姿がりりしくてカッコイイ。
この店のウリの一つは「スピード」らしくて、店員さんは常に一刻を争っている。
ハンバーガーを食べたくて来たこちらとしては、少々待たされても構いはしないのだけれど、一分一秒にしのぎを削る店員さんたちの奮戦を目の当たりにしていると、こちらも自然とあわただしい気持ちになってくる。
某道化師軽食店は、時間の流れが速いような気がする。
注文を出す時も、迷ってはいけないんじゃないかと思ってしまう。
だから、メニューはキメウチ。
「ご注文どうぞ~!」
の直後、呼吸を置かずに
「●●●バーガーのセットで。」
と重ねる。
よかった。
自分は、このお店のスピードに置いていかれてはいない。
内心、安堵のまるい息をはく…のも束の間。
「こちら、ポテトのセットでよろしいですか?」
と重ね返され、
「ぬかった・・・!」
と悔悟するわけなのです。
スピードにばかり気をとられて、丁寧さに欠けていた自分に恥じ入る。
・・・でも、
「●●●バーガーのセット。ポテトの方で。」
とよどみなく言うってのも、このトシになるとちょっと恥ずかしい気がするんですよね。
なんか、詳しくない方が自然な年代に足を踏み入れかけている、過渡期みたいなもの。
ちょっと乗り遅れちゃってる方が、きっと景色に違和感を落とさないような気がする。
飽くまでも、
「オッチャンだって、たまにはこんなのも食べたいんだよ。」
という余裕を見せなくちゃならない。
ジャンクフードを味わうのに、茶目っ気が必要となってきた。
つまり、道化師軽食店では、自分もちょっぴりお道化なきゃならんということです。
それらはとっても面倒なんだけど、あの油でギトギトのポテトとか、自販機から出てきたようなガーデンサラダをむしょうに食べたくなる時があるんだよ。
速さに特化した、風きり音のする店内で、すこし乗り切れていない自分を演出したり、自覚したりするのも楽しいかもしんない。
と、思い始めた今日この頃。
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