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2004年3月

まさかの雪

「違うでしょ。」
時期を逃した
はぐれ雪
咲き始めの花
しかめ面して

今日は、なんとウチの周りで雪が降りました。
午後には上がったんですがね。

この時期は、「三寒四温」ならぬ
「二寒四温一雪」です。

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下手でもね

読む時に
知らずにフシが
付くでしょう?
なるほどそれが
「歌」と言うもの

 *

最近、短歌・・というより、感じた事を如何に5・7・5・7・7の韻に乗せるかという事にハマっていましてね。

始めに、「技法」とか、「約束事」を調べようと思ったんだけど、
面倒だし、どーでもいいやと思いまして。

「どこまでも書いていいよ」というモノよりも、
「ここからここまでね」という枠を設けられると、自然と素直な気持ちが表現出来るもんだと思います。

言っとくけど、
ひねりもなんもあんましありません。

「口ずさむ短歌」を遊びたいと思います。

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平坦

生き方に
山無し谷無し
穏やかに
賢者と臆者は
また紙一重

 *

考えてみるに、穏やかで緩やかな自分の来し方。
危険や面倒は、独特の嗅覚で避けてきたけれど、
それはそれで「面白みの無い人間なんじゃないか?」という悩みもでるわけで。

果たして、それは正しかったのかそうでないのか・・。

些細な悩みだけどね。

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消費税を上げてからどうするんだ?

♪あ~がる~あ~がる~よ消費税はあがる~♪

・・我ながらつまらん替え歌だ。

4月1日より、商品価格の総額(内税)表示方式に変わりますな。
これで、より一層の消費の冷え込みに一役買ってくれるでしょうがね。

当然、誰がどう見たって「年金をとりあえずもう少し生き長らえさせる(ごまかす)ための金ヅルに、消費税を上げる。それを分かりにくくさせるための布石」である事は明白であるわけで。

まあ、そんなことは誰でも分かる。

消費税を上げるのはいいさ。
いや、良くないけど。
ただ、上げるんだったら上げるで、どこをどう直し、どういう方向に持っていこうとしているのかというプランが全然出てこないという事が問題なんだよね。

っつーのは、
こちらの木村 剛さんがおっしゃってるし、私もそのとおりだと思う。

よーするに、子供らの稼ぎを掠め取って食べてる多重債務者(もうすぐ禁治産者)のお父やんが、
「おまえら5倍にして返したるから、もうちょっと寄越せや」と言っているよーなもんじゃないの?
それは子供らも、履行されることはない空手形だって分かってるのに、出さないとお父やん暴力振るうから出してるんだよね。

もちろん、このしょーもないお父やんが一番悪いんだけど、それを正せない子供らもどーかと思う。

だって、みんな消費税が上がる事には反対するし、文句も言うのに、
選挙には行かない人も多いでしょう?

まあ、最近はちょっと投票率も上がるようになったみたいだけど、
今みたいなどーしようもなく行き詰まった世の中だったら、「正さなくちゃ!」と思うのは当たり前だし、そのために投票率は少なくとも90%は越えるのが本当でないかなあ。

関心を持って、常に勉強してないと、特権階級(税金寄生虫)の人たちがますます力をつけて、いずれ自分の身に降りかかってくるんだからさ。
幕末維新の頃を見ても分かる通り、日本の特権階級の人たちは、自分の権力を守るためだったら、日本の国を売る事もなんとも思わない人たちなんだからさ。

「しょーがないわねえ」と、どーしようもないヒモに小遣いを渡すのが好きな人ならいいけど、
生憎、私にはその趣味は無い。

私はまだまだ無知だけど、ちょっとでも勉強して、良く考えて投票し、その上で文句やら不満やら言いたいと思います。

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暴力について考える。

私は暴力が嫌いだ。

見ていて気分が悪いし、何より怖い。
暴力を振るうのもイヤだし、振るわれるのもイヤだ。

でも、暴力を工夫するのは好きだったりする。

例えば、木刀を早く、正確に、力強く振るように工夫するのは楽しいし、
薪を割る時も、常に人間相手を想定して斧を振っている。
突き(パンチ)を出す練習をするのも楽しい。
蹴りは余程習熟しないと、実戦では使えないので考えないようにしている。

と書くと我ながら怖いけど、

嫌い=使えない

は違うと思うわけだ。

暴力というものが確かに存在する以上、いつ自分の身に降りかかるか分からない。
こっちが手を出さなければ相手は何もしないというのは、あまりに平和ボケした楽観主義だと思う。
最近の犯罪を見て分かる通り、悪いやつは必ず弱い者、弱そうな者を狙う。
「相手にしない」とか、「オドオドしない」というのも、ある程度は効果的だけど、裏付けが無ければ結局は同じ事なのだから。
つまり、力が無いという事も、暴力を呼び起こすキッカケになり得るということなわけだ。

だから、

嫌い=使えるけど使わない

でないといけないと思う。

昔、柔道を教えてくれた老先生は
「最高の武術とは、戦いにならないようにする事」
とおっしゃった。

それは、戦いにならないように、相手に服従するという事ではなくて、
あくまでもこちらの体勢を崩さず、相手を引かせる、または上手く逃げる事であろうと解釈している。

最低限、自分と、身の回りの人間の安全をなんとか守れるくらいの戦闘力は、常に持つべきなんじゃないかな。

ただ、いざ戦いになったからといって、「待ってました!」とばかりに使えば、
まさに「生兵法は・・」だから、余程のことじゃない限り、
「その場をなんとか凌いで、逃げる。」ための戦闘力ね。

まあ、飽くまでも個人的な意見だけど。

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春眠

春眠不覚暁 処処聞啼鳥

~春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く~

宮城県もすっかり春めいて、朝晩もストーブの要らない日が増えてきました。

この時期の朝のまどろみというのは、実に気持ちのいいもので、もしかすると頭蓋の中にドーパミンが満ち満ちていて、その中に脳みそが浮いているんじゃないかと思えるほどの気持ちよさなのです。

大変風流な事に、「鳥のさえずりで目覚める」ということは良くありまして、

でも、鳥のさえずりごときでゆるりと起き上がるようなことはしません。

「・・・うるせーな!」と吐き捨て、

布団に篭城を決め込みます。

結局、朝の6時半にいつもの携帯電話のアラームが鳴る。

フェイ・ウォンの「Eyes on me(スペル、間違ってねーかな?)」だ。

これのサビの部分から始まる。

「だーりんそーぜーいゆあー、うぃってぃんるっくおーるゆあふぇいーす、あすひゅねーばはー、あーすひゅねーばだーん」

いえ、別に頭が壊れたわけではありませんよ。

「Eyes on me」のサビです。

適当に耳から入ったモノを言ってるだけです。

着信メロディーだからしょうがないっちゃしょうがないんだけど、やっぱりその前の部分がないと、サビのありがたみが薄れるな。

まあ、それはいいとして、それでしぶしぶ目を開ける。

携帯の電源をすかさずOFFにして、再び寝る。

すると、今度はテレビの電源が入る。

見事な波状攻撃だ。

(自分で仕掛けているんだが)

「目覚ましテレビ」。

半分目覚めながらも、根気良く布団の中でニュースを聞く。

んで、大体「占いカウントダウン」くらいにのろのろと着替え始めるわけだ。

どーでもいい事なんだけど、「占いカウントダウン」。

みずがめ座がワースト1の日が多くないか?

朝からちょっと陰鬱とした気分にさせるのはやめてほしい。

というか、むしろやめろ。

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お釈迦様がおっしゃる事にゃ

過去を追うな。

未来を願うな。

過去は既に捨てられた。

そして未来はまだやってこない。

だから、現在のことがらを、

それがあるところにおいて観察し、

揺るぐことなく動ずることなく、

よく見極めて実践せよ。

ただ今日なすべき事を熱心になせ。



うーん・・たしかにそのとおりだ。

「その日暮らし」を奨励しているわけですな。

お釈迦様は。

・・・

うそうそ。

よーするに、今、自分の出来得る事を出来るだけやんなさいってことなんだろうね。

今の自分の行動が、積み重なった物が過去。

今の自分の行動が、決めるのが未来。

最近の例で言うと、いかりや長介さんがまさにその実践者で、あの人は迫り来る「死」にも、勿論過去を振り返る事も無く、ただただいまなすべき事をなし、そうやって去ったからこそ、みんなにあれほど惜しまれるという未来があったわけだよね。

実は、こうやって生きる事は当たり前なんだけど、難しい。

どうしても、未来に祈ったり、過去にこだわってしまったり。

「今」から心が離れてしまいがちだ。

それでも、自分と時間の流れの接点は「今」しかないのだから、「今」を生きるしかないと。

そうやって考えると、「今」のなんと貴重な事か。

だから、「今」を精一杯生きよう。

と、締めたいところだけど、

実は、そんなややこしい事を考えているのは、脳みそだけなんだよね。

肉体は、立派に今を生きている。

もちろん、命令を下すのは脳だけど、

どんなに悩んでも、結局は腹が減る。

それは肉体が淡々と今を生きているからで。

みんな、脳だけで生きていると勘違いしがちだけど、

大きさから言えば脳なんて身体のごく1器官に過ぎないんだから。

だから、もっと肉体を意識して、それらに見習って生きられれば、

もしかすると淡々と、「今」を生きられるのではなかろうか。

人は脳のみにて生きるにあらず。

それも踏まえて、「今」を。

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おっちゃんだわ。

去る3月20日。

いかりや長介さんが死去されました。

晩年は、意外なほどの(失礼!)名優ぶりを発揮され、「人生の楽園」という番組のナレーションも大好きでした。

原発不明頚部りんぱガン。

原発不明ということは、根治の可能性は少なく、おそらく医師からも「長くは無い」と

告げられていたのでしょう。

そこで、臥せることなく最後までいのちの炎を燃やしきって逝ったいかりやさんに、

凄まじいまでの「生きる美しさ」を見た気がします。

話は変わりますが、この間いかりやさんの訃報を知らせる番組で、20歳くらいの女性にインタビューしていたのですが、

その人がなんと、こんな事を言っていたのです。

「いかりやさんて、コメディアンだったんですねー。そんな過去もあったのかと、ビックリしましたー。」

・・・あらー・・・。

私は、小さい頃「8時だヨ!全員集合!」と「俺たちひょうきん族」の二大コント番組を見て育った世代。

いかりや長介=ドリフターズ=コメディアン→へえ~、演技もできるんだー。

の図式が当然だと思っていましたので、結構ショックを受けました。

今考えてみると、どちらかと言うと私は「オレたちひょうきん族」の方を見ていたと思いますが・・。

たしか、後半の方では「8時だヨ!」は教育上良くないとの評判が立って、例に漏れず私も親に「8時だヨ!」は見ちゃダメ!と言われた記憶があります。

まあ、もともと「お笑い」と言うものは「禁忌」とのせめぎあいですからね。

その辺の折り合いをつけ続けるというのは至難でしょうね。

しかしなるほど、こういうのがジェネレーションギャップと言うヤツか。

世代の相違か。

オラもおっちゃんになったもんだ。

と、妙な感慨に耽ってしまったものです。



これからこういう話が多くなって、そのたびにこう思うのでしょうね。



なにはともあれ、

いかりや長介さんのご冥福を祈ります。

合掌。

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「朝のリレー」

「マイフォト」の方に載せてある「朝焼け」という題名の写真。

そちらの方ではスペースが足らなかったので、こちらに書いておきます。

あの朝焼けを見ているうちに、この詩を思い出しました。



 「朝のリレー」



       カムチャツカの若者が

       きりんの夢を見ているとき

       メキシコの娘は

       朝もやの中でバスを待っている

       ニューヨークの少女が

       ほほえみながら寝がえりをうつとき

       ローマの少年は

       柱頭を染める朝陽にウインクする

       この地球では

       いつもどこかで朝がはじまっている

       ぼくらは朝をリレーするのだ

       経度から経度へと

       そうしていわば交替で地球を守る

       眠る前のひととき耳をすますと

       どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる

       それはあなたの送った朝を

       誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ



                                 ~『谷川俊太郎詩集(日本の詩人17)』 河出書房より~



ネスカフェのCMで流れています。

あの切なげなピアノの調べがなんとも雰囲気に合っていますね。

ちなみに、私の朝は村のゴミ拾いから始まります。

これが適度な運動になって非常に具合がいいのです。

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日照雨の通り道

日照雨・・・「そばえ」と読みます。

「さばえ」と読む地方もあるようですが、
「日が照っているのに、雨が降っている」という気象状態を指して「日照雨(そばえ)」というそうです。

一般には、「狐日和(きつねびより)」とか、「狐の嫁入り」とか、「わたくし雨」などとも言うようですね。
個人的に、「わたくし雨」という呼び名も好きです。
なんだか、自分だけのために降る雨のようで。

「そばえ」は、夏に降るそれが名付けられたもので、
冬に来る「そばえ」は、「村しぐれ」とか、「片しぐれ」と言うんだそうです。

まあ、もっとも代表的な呼び方は「通り雨」なのですがね。(笑)


さて、当ウェブログの題名「日照雨の通り道」の由来は、
私の住んでいるところにあります。
宮城県の山あいに住んでいるのですが、ここはちょっと地理的にも変わっているところで、
「そばえ」の多いところなのです。

家の周りにだけ雨が落ち、ウチの前の道路(150メートルほど先にある)は晴れているという事も珍しくありません。
そして、一時雨を落とした雲は、あっという間に去ってゆき、後には雨上がりの清々とした空気と、時にはムワッとするような蒸し気と、虹の橋を架けます。


雨の神様は「龍」だと言われています。
だから、きっと私の住む山には龍神様が棲んでいて、どこかに出かける時によくウチの上を通り、少しの雨を落としてゆくのだろうと考えています。

そう思うと、楽しいものです。


そんなこんなをひっくるめて、「日照雨(そばえ)の通り道」。
あんまし気の利いた事は書けませんが、どうぞよろしくお願い致します。

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